最近続けて読んだ2冊の本、「花もて語れ」と「キネマの神様」。
たまたまその順番になっただけなんだけれど、二つ続けて読んだことで深く感じ入るところがありました。

「花もて語れ」は珍しくも朗読を題材にしたコミック。
音の表現である朗読を、音のでない漫画で臨場感たっぷりに伝えてくれます。
そもそもあまり馴染みのない、朗読というもの。音読を思い浮かべる人が多いと思いますが、ただ声に出して読めばいいというものではないのです。
朗読は読み手が一文一文を理解しなければ、声を発することもできない。読んでも聞き手に伝わらない。
一巻では主人公が宮沢賢治の「やまなし」を朗読することに挑みますが、そのために「かぷかぷ」ってなんだろう?「クラムボン」ってなんだろう?と一つ一つ読み解いていきます。

一方「キネマの神様」はそのタイトルの通り映画を題材にした小説。
主人公が、ギャンブルと映画が趣味で借金を繰り返す父に映画ブログを始めさせたことから広がるストーリーは、映画の魅力や家族の絆や名画座の危機などを絡めつつ、たくさんの奇跡のような出来事を読ませてくれる、とても面白い物語になっています。
そのなかで、父が書くブログの映画評に対して、挑戦的な映画批評をぶつけて来る謎の人物が現れ、二人のやりとりはこの物語の重要な部分になっていくのですが、ここがとてもいい。
どちらもそれぞれの視点でその映画を深く理解し、お互いの理解を批判したり受け入れたりしながら丁々発止のやりとりを続けていきます。そしてあったこともない相手でありながら友情が育まれていく。
物語としてとても感動的で、面白いというのもあるのですが、この二人の映画との関わり方がとても印象的だったのです。

「花もて語れ」も「キネマの神様」も、深く読む、深く観る人たちの物語。
物語も音楽も映画も絵画も、ただ心のままに感じることで楽しむことができるものではあります。それはそれで大切で楽しみ方。
けれども、読んでみてわからないことを、なんだろう?と考えてみる。
その映画が作られた時代背景を、その社会を、監督の人生を踏まえて、観てみる。
一つの物語をよくよく噛んでいろいろな味を味わうこと。
自分には理解出来ないと思ったことを視点を変えて観てみること。
わからなさを向かい合うこと。
それも例えば読書の、映画鑑賞の楽しみかなと思うのです。

ちょうど最近物語を「面白い」と感じた理由に「共感」という言葉が多く使われている気がして違和感を感じているところだったので、この2作品を続けて読んだことで改めて、面白さってそれだけじゃないよなと思うことができたのでした。

心も頭も体も使って楽しむ、理屈じゃないことも理屈も味わう、そんな楽しみ方がもっともっとできるといいな。

読むこと。観ること。「花もて語れ」と「キネマの神様」

2011年6月7日 23:40.
投稿者:マキ
カテゴリー:よむよむ
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